白野週報

Molière a du génie et Christian était beau.

流行りの方法論についての覚書

 半世紀前の文芸批評に目を通すと、レヴィナスレヴィ=ストロース、バルトといった人たちの方法論が特に註釈もなく援用されているのが目につく。それが悪いと言うのでなく、当時はそれが共通の基盤として書き手にも読者にも通用していたということを確認したいだけだ。バルトの記号論などは言語記号論の専門家などには評判が悪いらしいが、そういうことを掘り下げるとキリがない*1

 唐十郎サルトルの戯曲から出発していることは有名だが、意外なところでは、つかこうへいも初期の作品はサルトルからの影響が感じられる。『戦争で死ねなかったお父さんのために』『熱海殺人事件』で「かくあるべき」という本質を求めて右往左往する登場人物というモチーフなどは「実存は本質に先立つ」というテーゼの影響であると言ってよいのではないか。もっともこれは私独自の発想ではなく、卒論の準備中に指導教員から示唆を受けたことを受け売りしているに過ぎない。

 平田オリザが「カオスの演劇」ということを繰り返し述べていたのも、カオス理論が流行っていたことの影響であるように思える。『ジュラシックパーク』もクローニングとアニマルパニックの側面ばかり強調されるが、小説の主題はカオス理論だ。映画『バタフライエフェクト』の題名に使われている「バタフライエフェクト」も「北京で蝶が飛ぶとヒマラヤで竜巻が起こる」という、カオス理論を端的に説明した有名な例えから来ている。ニーチェの「永劫回帰」が科学的に間違っていることを示唆したのもカオス理論だ。

 最近の流行りについては、なにが流行っている云々と評価することは難しい。しかし、どのようなものも生成された時代の刻印を帯びているものだ。何十年かすれば、やはりこの時代の言説に特有の方法論が見いだされるはずである。

 

*1:T.A.シービオクは山口昌夫との対談で「バルトは原文にあたらずフランス語の訳書で済ませて物を言っている」と批判していた覚えがある。