白野週報

Molière a du génie et Christian était beau.

劇団桟敷童子の美術

 先日劇団桟敷童子からDMが届いた。ここ数年小劇場から足が遠のいていたところにコロナ禍にトドメを刺され、小劇場系の演劇はほとんど観なくなってしまった。大学の同級生が今でも現役で舞台に出続けているが、彼らの公演も二年以上観ていない。誘われれば行くつもりだが、そこまで縁が深いわけでもないし、そういう消極的な態度の観客は呼んでも面白くなかろう。そういった事情で、桟敷童子の公演が私が年間を通じて一度は見物することにしているほぼ唯一の小劇場演劇になる。

 こういうことを言って万が一関係者の目に留まりでもしたら不興を買いそうだが、桟敷童子の脚本はあまり好きになれない。つまらないという意味ではなく、とにかく肌感覚に合わない。元気があるときには問題なく鑑賞できるのだが、それでも劇場を出る時は全身の骨髄に鉛でも混ぜられたようなけだるさを覚える。もし心身いずれかに不調があるときに鑑賞したならば、たまらないことになるだろう。愉快な気持ちで劇場を後にしたことはほとんどない。明るい気持ちで劇場を出たのは『泳ぐ機関車』の時ぐらいだったように覚えている。

 そういう愉快でない思いをしながらも桟敷童子を観に行かずにいられない最大の理由は舞台美術の美しさにある。演劇理論には舞台美術をやたらと軽視するものがいくつもあるが、一度でも桟敷童子を鑑賞すれば美術軽視の理屈が少なくとも絶対のものでないことを実感できると私は信じる。現在活動している小劇場団体のうち桟敷童子よりも見事な美術を組む人たちを私は知らない。というよりも、伊藤熹朔や田中良といった舞台美術における「巨人」と同一の地平線上にいるとさえ感じられる(ナマイキな言い方で申し訳ないが)。そしてこの美術がすみだパークスタジオ倉(現在はすみだパークシアター倉という新しい劇場になっている)という空間に実によく調和していた。六月に行わえる新作公演の美術もきっと、素晴らしいものに違いない。