白野週報

Molière a du génie et Christian était beau.

英文解釈の技術としての受験英語

  最近、仕事の都合でそれなりに長い英語の文献に目を通している。英語が得意な人であればそれこそ出勤前に朝刊を読むような速さで内容を理解できるのだろうが、私は恥ずかしながら英語がほとんどできないので毎日泣き濡れて下訳を作っている。

 この時に役に立つのが昔予備校で教わった構文分析法(という言葉であってるだろうか?)だった。要するに何が何でもSVOCとそれぞれにかかる修飾関係を発見してから日本語に訳すという、なにを当たり前のことを言っているのだというようなやり方なのだが、これを綱渡りでもするような調子で行うことで私のような人間でもけっこう正確に読むことができる。速読法の類というのはこの作業が高速で、あるいは無意識で行えるような人がやって初めて意味のあることなのだということを予備校の先生は繰り返し説いていた。曰く「やつらの九割はただ誤読を早くやってるだけなんだよ」と。おそらくそうなのだろうと今でも思っている。

 私のように、特にスキルとして自覚できるレベルの英語を身に付けているわけでない人間が英語を使わざるを得なくなった際に用いるのはやはり受験英語なのではないかと思う。近年、Speakingの技能をより重要視しようという話が持ち上がっており、それ以降のことについては当事者ではないのでよくわからない。ただ少なくとも私の世代までは間違いなく、受験英語は難解な英文で書かれた原書を読むことをゴールにしていたように思う。そのことの功罪については様々な見解があるように思うが、少なくとも「受験英語は実戦では全く役に立たない」というよく言われる説については必ずしも正しくないのではないか。少なくとも、ReadingとWritingの二技能については間違いなく実戦レベルで役立つと断言できる。Listeningについては……確かに怪しかったかもしれないが。