白野週報

Molière a du génie et Christian était beau.

岩波ホールの閉館と『演劇界』廃刊

 神保町の岩波ホール閉館と歌舞伎鑑賞雑誌『演劇界』廃刊のニュースを同じ日に目にした。私は世代でないので、これをもって一つの時代が云々という話をするつもりはない。そもそも映画館の変質も人文系の雑誌の低調も今に始まったことではない。雑誌について言えば2016年の雑誌『文学』(岩波書店)廃刊の方が象徴的な出来事だったように思う。映画については、私はそもそもシネマコンプレックスが定着し切った時代の人間であるし、熱心に単館系、ミニシアターに通う人間ではないので実感はわきにくい。ただ、2019年のスバル座閉館の折には何回か映画を観に行った。スバル座の内装は好きだったのでそういう意味では残念に思っている。

 岩波ホール閉館についてある人が「岩波ホール独特の説教臭さが若い観客の気をひかなかったのだ」と書いていた(あいにくメモし忘れて発言者を忘れてしまった)。確かに、岩波ホールの上映ラインナップは確かに、ミニシアターの中でもなんとも言えない独特の気分があった。ミニシアターは「社会派」と言うべき作品をよく手掛けているので、岩波ホールだけがことさら説教臭いとは思われない。しかしこれはあくまでも私の感じ方なのだが、岩波ホールの問題意識というか、映画のセレクションは若い人よりも確かにもっと上の世代が関心を持つような種類のものであったという印象はある。無論、私の勝手な感じ方に過ぎないのであるが。

 『演劇界』は周知の通り現在唯一の歌舞伎専門雑誌だが、歌舞伎専門に舵を切ったのは意外に最近の事である(正確な時期は情けないことに把握していないが)。なお「唯一の」と『演劇界』編集部が誇るのはかつて『幕間』や『季刊歌舞伎』のような雑誌があったためで、それらがすでにないことを思えば『演劇界』はよく今日まで持ちこたえたと言うべきであろう。この『演劇界』は明治後半~昭和戦中の劇界を知る必携史料と名高い『演芸画報』の後身であるというのはひろく知られている(実際には雑誌の戦時政策の一環で複数の演劇雑誌が統廃合した結果生まれたのであるが、発足当時の方針としては確かに『演芸画報』に近しい)。この『演芸画報』は戸板康二が「意外に新劇の記事が多い」と書いているように、歌舞伎専門紙ではなく新派、新国劇、新劇と実に幅広いジャンルの演劇について論じている。この横断性こそが当時を知る助けになる。というよりもむしろ、戦後もある時期に至るまではジャンル間の人的交流は実に広範にわたっており、特定のジャンルを自立したものとして完結させることは難しい。もっとも、これ以上素人学問で演劇史を語るのは恐ろしいのでこの辺でやめておく。一つだけ言いたいのは、『演劇界』創刊以降、この雑誌は長らく歌舞伎以外のジャンルも扱ってきた。それがある時期から歌舞伎専門誌に転じたことは、私にはさみしく思われてならない。

 『演劇界』は舞台写真を売り物にしていたが、『演芸画報』も舞台写真が魅力的だった。カメラの性能が向上する以前の舞台写真は上演の様子を収めるのではなく舞台写真用に別に撮る必要があった。これは私の趣味の問題なのだが、舞台写真はこの別撮り時代のものが何とも言えず好きだった。上演の一瞬を切り取るのでなく、そのために見た目を拵え背景を用意して撮っているわけで考えてみれば却って贅沢だったかもしれない。

 それにしても、遠い未来に令和演劇を研究する人は一体何を史料にすればいいのだろうか。劇評はいまでも新聞に掲載されているが、どちらかといえば内容の紹介に終始しているものが多い印象を受ける。客席の気分や、評者自身の印象はあまり語られない。ある人が「読み手は“推し“への礼賛を求めて劇評を読んでいる」と言っていた。往年のような痛烈な調子で評を書くと損をするということはひょっとしたらあるのかもしれない。おそらく「批判」の意味で「批評」という言葉を使っているのを目にしたことがある。批判、批評は悪口を言うという意味ではない(『純粋理性批判』は「純粋理性」の悪口を記した本ではない。もっとも、批判という語は今日もっぱら否定的なニュアンスで用いられると『日本国語大辞典』にも記されているのだが)。批評は創作の敵とみなされているのだろう。そうなった原因がどこにあるのかは私は知らない。柄谷行人村上春樹を痛烈に批判し、村上春樹柄谷行人への強烈な揶揄を記すという有名な逸話がある。なので、若い世代が云々という問題ではなかろう。重要なのは、インターネットを通じて誰もが自分の意見を発信できるというシチュエーションではないか。それにSNSは短文のコミュニケーションが多いので、思ったことの表層が即座に形になりやすい。そこになにか鍵があるように思われるが、今の私には「そんな気がする」以上のことを言う用意はない。無論、批評という体裁で意味不明な難癖をつけているのは私も目にしたことがある。しかし意味不明な難癖としか思えぬ批評(鍵括弧付きの「批評」と言うべきか)も、それを読み手が批判して自分の考えを形にまとめる機会に寄与するならそこには価値があるのではないか。かつて「探偵小説」の定義をめぐって子どもの喧嘩の如き論争が起こったことがある。しかしその「子どもの喧嘩」通じて我々は「探偵小説」という概念の変遷を知ることができるのである。もっとも、胸の悪くなるような文章は私も読みたくはないが。