白野週報

Molière a du génie et Christian était beau.

「ドラマ」の中の音楽について

 「ドラマ」における音楽の話ほど面白いことはない。演劇、映画、テレビドラマ、そしてアニメーションにおいて、音楽は実に多くの効用性を示している。テーマ音楽を耳にするだけで、思い出の中の名場面がよみがえってくるということは少なくない。冷静に考えれば実に散文的であるはずの情景描写が、音楽を伴うことで実に情動を刺激するものになることもあるだろう。お気に入りの漫画がアニメ化したと仮定して、オープニング、エンディング両テーマを選定するという遊びに耽ったことのある人も多いのではないだろうか。今日は素人ながらこの「ドラマ」における音楽について少しばかり考えてみたい。

 「ドラマ」という語は今日、ふつうはテレビドラマを指してつかわれるのであるが、そのテレビドラマにおいて音楽が積極的に活用されるようになるのは、いつ頃からなのだろうか。テレビ史に詳しくないので断言することはできないが、おそらく初めから音楽の利用が前提になっていたのではないだろうか。というのも、テレビドラマに先行するジャンルである映画は、その初期から実に効果的に音楽を用いてきたからである。映画においては、サイレント映画の時代に活動弁士による解説に加えてオーケストラによる伴奏が行われていたことは広く知られている(活動弁士については2019年公開の映画『カツベン!』(監督周防正行)が題材にしたこともあって、にわかに注目が集まっている)。チャップリンは自作の映画につける伴奏について自ら作曲しフィルムと合わせて配給したという逸話が残っているが、これは当時映画館で演奏される音楽が各館任せでバラバラであったということを示唆していると考えてよい。トーキー映画においても、テーマ音楽の使用は継続した。『風と共に去りぬ』のメインテーマは20代後半までの世代にとっては『午後のロードショー』のテーマとしてなじみ深い。一方で実際に映画を観たという人にとっては、あのテーマを耳にするだけでスカーレット・オハラやレット・バトラーの顔がよぎるという、そういった効用性があるのではないだろうか。思い出深い映画を振り返るとき、そのテーマ音楽も思い起こされるというのはごく一般的な話である。

 舞台においてはどうだろうか。今日、なにか重要なシーンにおいて音楽が差し挟まる舞台作品は多い。これはいつ頃から行われているのであろうか。今日のそれは、演者のセリフや情景の表現と不可分のチョボや、劇中世界で実際に鳴り響いている(という設定の)余所事浄瑠璃とは性質を異にしているように思われる。寺山修司唐十郎は劇中で歌謡曲のレコードを利用した特に早い例であると以前、なにかで読んだ記憶がある。寺山の戯曲を参照すると、『毛皮のマリー』のト書きには「蓄音機がある」という指定されていた(ただし今手元にないため確認はできていない)。おそらく、その蓄音機がレコードを鳴らしているというイメージか、あるいは実際にそこから音楽を流していたのだろう。その後の世代であるつかこうへいの舞台には、蓄音機を置くといったような指定は見られない。ただ音楽が鳴り響くばかりである。もっとも『熱海殺人事件』においては音楽利用のキューは劇中人物にゆだねられているという風に描写されている。そういう意味では、音楽は劇中世界から自立してなっているわけではないと理解してよいだろう。

 先に触れた映画のテーマ音楽は、多くの場合劇中の世界から自立して鳴り響いている。言い換えれば、我々観客はテーマを耳にしているが、劇中人物はその響きを聞き取ることはない。かつては劇中で鳴り響いている音楽というものがあったはずなのだが、こちらの表現が今日において主流になっているというのは興味深い。もっとも歌舞伎におけるチョボのような「語り」としての音楽利用との差異については素人考えで手に負える範疇を超えているから脇に置かざるを得ないのであるが。脇に置いたうえでもう少し話を進める(ブログであるのでこれぐらいの狼藉はお許し願いたい)。

 これはおそらく、我々が映画やテレビドラマを前提にして「ドラマ」に接していることと無関係ではあるまい。テレビドラマを見るよりも先に舞台に接する人というのは、今日考えにくい。詳しくは調べていないが、昭和50年代にはカラーテレビの普及率は90%を超えていたと言われている(総務省通信統計データベース「通信白書 昭和62年版」より)。我々にとっての「ドラマ」は、BGMの使用が前提になっているというわけだ。アマチュア演劇を観劇すると、その音楽の使い方が実にテレビ的であることが実感される。素人が片手間で考えた説ではあるが案外、要因のひとつに掠ってはいるのではないかと、少しばかり自信がある。本来であれば推敲の上でもう2000字4000字と書くべきところではあるが、生活に差し障るので今日はこれぎりとする。