白野週報

Molière a du génie et Christian était beau.

「作者の気持ちを答えよ」という設問

 入試シーズンになると決まって「作者の気持ちを答えさせる設問は無意味である。なぜなら作者は選択肢にあるようなことを考えながら文章を書いているわけではないのだから。」という旨のことが言われるようになる。そういう発言は例えば受容理論、関係主義を採る立場から真面目に論じられることもあるが、たいていの場合は冗談として言われているように思われる。

 そもそも、私の体感では「作者の気持ち」を回答する問題は記述式、択一式問わず見かけた覚えがない。「筆者の考えを答えよ」か「この場面での登場人物何某の気持ちを答えよ」という問題は確かにある。前者は、論説文のような執筆にあたって何らかの考えを読者に主張することが前提になっている文章で問われる。後者は小説などの物語文で問われるもので、正答の根拠は出題箇所の文中に求められる。どちらも共通しているのは、提示された文章を読み取ることができているのかを問うているということだろう。それらで求められるのは書いてあることを書いてある通りに読むことができるのかという大雑把な意味での「読解力」である。無論、行間が重要である場合もあるだろうが行間というのは文と文を根拠に類推を行うということであって、正答の根拠は書いてあることにのみ求められる。

 「作者の気持ち」批判はつまり、文中に正答できる要素がないものを答えさせているということが問題視されているわけだが実際の設問を見る限り、その批判に当たらないものの方が多い(多いというよりそもそも私は見たことがない)。この記事について「筆者の考えを答えよ」と出題するならば「作者の気持ちを答えさせる問題は実際には存在しない」とか「この手の設問は書いてあることを読めているか聞いているのであって、正解が本文中からわからないような問題はでない」というようなことが答えになるだろう。もっとも、これは個人がブログで習作として勝手に書いているものであるから問題文として利用するのは不適当な出来なのであるが。ちなみに「筆者の気持ち」は「夕食はそれなりに食べたのにお腹が空いた」「もっと痩せるペースを上げないといけない」「暖房の効きが悪くていやだ」「あれを書くこれを書くと大言しながらまったく果たせない自分が嫌だ」といったようなことが正解になるだろう。

 いずれにせよ、この手の設問では書いてあることだけが(二重の意味で)問題にされている。書いてあることを書いてある通りに読むというのはそもそも難しい。「みんな書いていないことを勝手に補って思い込みで偽りの内容を作り上げている」と恐怖心を口にしている人をSNSで見たことがある。しかし、あらゆるものは周囲との関係から逃れられないのであって、自分自身と切り離して読むというのは難しい。自分の知識、経験、感情生活からまったく自由になってなにかを読むということはそもそも可能なのか。可能であったとして、それはかなり高度な技能なのではないかと思う。もし文章読解が生得的な能力なのであれば、公教育に文章読解が採用されることはないだろう。書いてあることを書いてある通りに読む。基本的でありながら難しい技能であるからこそ、「作者の意図」よりも「読者の受容」や「周辺との関係」が重要視されるようになって久しいにも関わらずこうした設問が利用されているのだろう。

 ただ、私の個人的な意見としてはもう少し受験における国文法の比重を増やした方が良いのではないかと思いはする。文法のルールは客観的で、試験においても公平性を担保しやすいように思われる。それに私の体感としては受験で軽視されている関係から授業でも軽視されがちな傾向があるように思われる。古典籍も外国語も、文法が分からなければ読むことは難しい。日常で使っている言語とはいえ、日本語の文法はもう少し重要視されてもいいのではないだろうか。