白野週報

Molière a du génie et Christian était beau.

言論活動について思うこと

 白野週報も週報と言いながら月一回か二回の更新という状態が続いている。言いたいことがないというよりも、意見をまとめるという作業についての抵抗感を振り切れなくなったことが大きい(これは確か、前にも書いている)。言い訳ばかりが続いているが、それにつけても思うのは近年の言論活動がやたらと断定的で、攻撃的であることである。

 先週起きた安倍晋三元首相暗殺について特に思うのであるが、とにかく攻撃的な口調で「論敵」を罵倒するような物言いが目立つ。これは特定の立場にのみ見られる傾向ではなく、(いささか図式的な言い方になるが)右翼、左翼両陣営に見られる。全員がそうであるというわけではない。ただ、先日決定された国葬について賛成するにせよ反対するにせよ、自分と反対の立場の人間に罵声を浴びせるのはどういう了見なのだろうか。敵をやっつければ自分の意見の優位性を世間に対して示せるとでもいうのであろうか。敵に対して痛罵を行って称賛してくれるのは最初から自分と同じ立場の人だけではないのか。世間に多数いる中庸な人々の心証はかえって悪くなるように思える。

 こうした、言論活動が身内に語り掛ける言葉だけなり、その結果として自分とその賛同者の意見ばかりが正しいものであるような認識が膨れ上がる現象を「エコー・チェンバー現象」というらしい。らしいというのは、この現象を扱った書籍が見当たらず、手元の辞書にも立項されていないのでどの程度支持されているものなのか判断がつかないのだ。Wikipediaにはこの現象の解説と英語の参考文献が数冊挙げられているが、あいにく自分の専門外の英文をすらすら読むだけの余裕と語学力がないのだ。なので、この「エコー・チェンバー」が一定以上認められた現象なのかは判断できないのであるが、体感としてはいかにもありそうな現象であるように思う。

 言論を行う上で、何を目的としていても構わない。しかし、自分の考えを正しいものであると受け入れてもらうためには工夫と手間がかかる。それは何も政治的なトピックだけでなく例えば「この漫画はとても面白い」という評価を広めたいのであれば、その作品のなにがどう優れているのか、どこが琴線に触れたのか、読み手に伝わるように書かなければならない。なにか話題にするときは是非そのようにせよと言っているのではない。ただ、自分の見解を広めたいのであればそのようにするほうが効率的ではないか。