白野週報

Molière a du génie et Christian était beau.

『Gレコ』雑感

 最近、いよいよもって「週報」のていをなさなくなってきた。それというのもやはり「人目につく可能性のあるものはなにか素晴らしい、優れたものとして提示しなければならない」という強迫観念に拠るところが大きい。そんなことはいきなりできるものではないのだから、こうして恥を忍んでブログなど始めたのではなかったのか。

 なので、今日は劇場版『Gのレコンギスタ』を終編まで見終えたうえで感じたことをメモ程度に書いてみよう。そういう風にしなければ自分の考えを外に出すとことのないまま一生が終わる。どれだけ些細なことでもアウトプットはストレスのかかる作業であるから、慣らし運転はなるべくやっておく方が良いのだ。

 

 『Gのレコンギスタ』(以下、『Gレコ』)を見終えてもっとも強く感じたことは非言語の情報、言語に変換しては正確に表現できそうにない情報の比重が極めて大きいということだった。もっとも、映画というのは小説と違って文字で説明することができないのであるから目と耳に飛び込んでくる描写が重要であることは言うまでもない。富野由悠季作品は俗に「富野節」と呼ばれる独特のセリフ回しで有名なので、ついセリフから得られる情報に意識を持っていかれてしまう。しかし、『Gレコ』は台詞を聞いてもそれがなにを示しているのかよくわからないことが圧倒的に多い。現代日本には存在しない造語がいくつも飛び交うのだから当然のことだ。テレビシリーズ放映当時、詰め込み過ぎてなんのことだかわからないと視聴者の不興を買ったのもまた当然の帰結だろう。聞いてもよくわからないのだ。また、富野節は饒舌さに反して核心の部分は説明しない(もっとも、本当を言えば全部台詞で説明してしまう脚本家はあえてそうする場合を除けばあまり腕が良くないということなのだが)。例えば、Ⅳのクライマックス、大量破壊兵器を起動し、かつて良くしてくれた先輩(マスク)に殺人者と指弾されながら猛追を受け、挙句直前まで味方として一緒に行動していたはずの級友(マニィ)が離反しこちらに敵意を向ける。そういう極限状態の中ベルリが喚いた言葉はただ「怖かったんだぞ」というシンプルなものだった。ここではなにが「怖かった」のかは明示されず、その一言の背後に横たわることは何一つ言葉では示されない。あるのはただ、これまでの描写の積み重ね、画面、そして声優の名調子だけだ。しかしそれらによって「怖かった」に含有される言葉にならない感覚が視聴者に理解されるように仕組まれている。

 スーザン・ソンタグはかつて『反解釈』で言語による解釈ではなく感覚に直接訴えるものが重要なのだというような意味の事を書いていた。最近読み返していないので正確な文言が思い出せないが、そういうことを書いていたはずである。このソンタグ的な「反解釈」の見方で接すること、つまり目と耳から直接感性に訴えかけてくるもの、官能性こそが『Gレコ』を観る上ではおそらく必要なのだ。このこういう描写はなにを表していてこれが伏線になっていてという風に、得たものをすべて言語に変換しようとするとおそらくとてつもなく疲れる。私にはできる気がしない。しかし「面白かった」と感じることができる。それで済ませるならわざわざブログにする意味がないような気がするが、とにかくこれが完結まで見終えた今現在の感想である。

 最後に、なにやら偉そうなことをつらつらと書いたが別に『Gレコ』を見て楽しめなかったからと言ってなにか鑑賞のテクニックがないだとか理解力が足りていないだとか、そういう話にはならないだろうということは付け足しておきたい。どんなものにも相性というものはあるわけなので、相性が悪い作品を鑑賞するとどれだけ周りが褒めて居ようと納得はしがたい。なにか特定の作家や作品と相性が悪いからと言ってそれでなにか人を責めるようなことを言っていては、いずれその責めは自分に跳ね返ってくることになるだろう。そういう話はしたって仕方がないのである。

 まとまりのない話を原稿用紙四枚以上書いてしまった。ひとまず、まとまりのない雑感にとどめて今日は筆を置くことにする。