白野週報

Molière a du génie et Christian était beau.

「文章を書く」という行為

 「文章を書けるようになるためには文章を書くよりほかない」という作家志望者向けの循環参照の如きアドバイスを耳にしたことがある人も多いのではないだろうか。私は小説家ではないし小説家を志望しているわけでもないがこれは妥当な意見であるように思われる。フィクション、ノンフィクション問わず「文章を書く」という行為に慣れ親しむためには結局、より多くの文章を書くより他ない。同人誌や投書から個人サイト、ブログ、SNSと文章を書き、発表する手段は身近なものになってきた。とはいえ、もっとも手軽なテキストメディアであるtwitterはひとかたまり140字の制限が設けられているし、なんらかの話題について「読ませる」ことを目的としたtweetであっても1000字を超えることはまれであろう。職業人であれば企画書の類、あるいは学生であれば日々の課題レポート以外には一定以上のまとまりを持った文章を書く機会は案外乏しい。

 そもそも「文章を書く」というのは概ねストレスフルな行為であるように思われる(というよりもむしろアウトプットを伴うという行為一般がストレスを伴うように思われるが、ここでは文章に限って筆を進める。従事したことがないものについてあまり物を言いたくはない)。我々は日々、言語によって思考を行っているわけだが、それを外部に出力するとなると話が変わってくる。少年時代、四百字詰めの原稿用紙一枚分の作文が書けずに苦労したという経験があるという人も多いだろう。無論、書きたくて書いている場合となにか必要に迫られて書いている場合とでモチベーションに差異があるということは考慮すべきである。だが重要なのは、自分が書きたいと思って書いている文章でさえ書いている間は苦しいということである。SNSで日夜商業的に成功を収めている作家たちが、あるいは二次創作に従事し自分の愛してやまない作品についての「妄想」を形にしている人たちが締切ごとにうめき声をあげているのはなぜか(ポーズとして苦しんで見せているという場合もあるのかもしれないが、そこまで考えていたらキリがない)。商業連載を受け持っている作家であれば、もはや「小説を書く」という目的が家計を支える手段となっているということも考える必要はあるだろう。では同人の方はどうか。彼らはなぜ苦しみ呻きながら文章を書くのか。自分の思いを誰に頼まれるでもなく自分のために形にしているはずなのになにを苦しんでいるのか。それはやはり自分の頭の中にある観念や情念、考えを形にするということが苦しみを伴う(少なくとも伴いがちである)からではないだろうか。

 頭の中にあるものについて客観性を求められることはあまりないが、外界に出力する以上どんなものであれある程度は妥当性や水準の高さが求められる。そうすると、自分の書いた文章の方々がおかしなものに見えてくる。自分の拵えた架空の第三者が妥当性を欠く箇所を次々と指摘してくるような心地さえしてくることもあろう。書いては直し、書いては直しを繰り返していくうちに不穏な考えが鎌首をもたげる。「本当にこれで正しいのだろうか」「これをわざわざ人様に提示する意味があるのだろうか」と。そして否定的なレスポンスを受け取った日には目も当てられない。原稿の修正依頼が出るたびに私はいつも泣きそうになる(もっとも、現行の修正依頼は内容を向上し適切なものに直すために出されるのであって否定的なレスポンスとして挙げるのは不適当である。そもそも修正が求められるのはこちらの不出来のためであって、傷付いただのなんだのとそれらを握りつぶせば私は早晩失業するだろう)。一切の反論を埒外に追いやって猛然と自説を開陳している人というのはプロアマ問わず大勢いる。彼らの本心は私の知る所ではない。悶え苦しんで書き上げたのか、それとも浮かんでいく考えを濁流のように吐き出したのか(特に気に食わない論考を目にしたとき我々は…といって主語が不適当なら私は…つい後者であることを前提にして受け取りがちである)。いずれにせよ、彼らはルビコン川を渡って自説を公にしているのであるから立派なことであると思う。尊重したいと思う。願わくば私も、自らの意見を呼吸するように示せればよいと思う。