白野週報

Molière a du génie et Christian était beau.

動物の「知性」

 朝、水槽を覗き込むと亀が考え事をしていた。無論、考え事をしていたというのは私の勝手な決めつけに過ぎない。正確に言えば、まるで考え事でもしているかの如くじっとして虚空を見つめていた。種族としての亀にどの程度の知能があるのか、正確なことを私は知らない。一説によれば、大型リクガメは優れた長期記憶能力を有すとともに一定の学習能力を有しているらしい。私の飼っている亀は人間が近づくとエサを催促する。腹が減っていれば猛烈にアピールを行うし、そうでないならこちらの存在などまるで気にも留めない。とはいえあまり顔や手を近付けすぎるとさすがに顔や手足を引っ込め防御の構えを取る。ストレスであろうから、なるべく必要な時以外には構わないようにしている。

 仮に亀が考え事をしていたと仮定しても、その考えは私には理解できまい。トマス・ネーゲルの書いた『コウモリであるとはどのようなことか』という哲学書がある。恥ずかしながら私は読んだことがない。確か、意識のハードプロブレムについて興味を持って調べ物をしたときに名前と概要だけを知ったのだと思う。人間でありながらコウモリの主観的経験を把握する方法はないということを軸に論が進んでいくらしい。コウモリがなにを見聞きしなにを知覚しているのか把握することは既知の科学では不可能でありそれゆえに意識の研究は云々と、あまり読んでいない本の中身を知っている風に語ることはこのあたりでやめる。要するに、私は亀であったことがないから亀が何を考えているのか理解することはできないということが言いたかっただけだ。

 動物の知能を考えるときに俗に「犬は人間でいうところのn歳相当の知能指数をもつ」といった言い方がされる。人間が、人間の制度内で動物を何らかの資源として利用しているのであるから、尺度を人間のそれに求めることに異存はない。ただ、動物には各々その種にとってのルールや必要性に応じた能力があるのであって、人間の尺度を持ち出して過度に擬人化しては対象のことは理解できないだろうと思う。最近、サラブレッドに対する注目が高まっている。これは競走馬を擬人化したアニメ作品の影響であるが、擬人化によって注目された裏返しとして次のようなことが言われる。「馬はいちいちライバルの顔なんて覚えてないし個体の識別なんてしてない」と。馬は群れで行動する生き物なので「個体の識別はしていない」というのは単に筆が滑ったのだろうと思う。では「ライバルの顔」はどうだろうか。競馬場で一緒に走る馬の顔という意味ではそうかもしれない。しかし、養老牧場の写真を見ていると「お友達」を見分け寄り添い楽しく(?)暮らしていることが感じられる。楽しいかどうかはネーゲルを引き合いに「馬になったことがない」とやる以前に、馬事にかかわったことがないのでわからない。当事者のコメントを読んでも「~~そう」という言い方があるだけだ。ただ、特定の馬を見分けて欠かさずに攻撃に向かったという某スターホースの逸話もあるほどで、馬も馬なりに相手を見て好悪その他を判断しているのだろうと思う。

 亀の話から思わぬ方向に話が進んでしまった。当初文章置き場として作ったブログには、いまだ日記しか置かれていない。忙しいからというのは単なる言い訳で、休息の合間になにか書けばいいのにそれをやらないのであるから、いつまでも同じことの繰り返しだ。日記を書くことを悪いと言っているのではない(そういうイヤなことを言う人もいるのだろうが)。いちいち書く必要のないことだが、念のため付け加えておく。