白野週報

Molière a du génie et Christian était beau.

大迫力だった波乃久里子

 先日、佐藤雅文率いる新派の子のリーディング公演を見物した。新派は本来、耳で聴く台詞だけでなく装置や衣裳、小道具といった視覚の要素の中に深い味わいがあるのだが(数年前に三越劇場でやった『黒蜥蜴』の美術は傑作だった)コロナ禍で松竹から実質見放された新派には大劇場で装置を組むだけの余力が残されていないらしい。そのことが公演後のあいさつの端々から示唆されていた。新派の子も佐藤の私財によって運営されているらしいということが言われていたが、果たして黒字になったのだろうか。内幕のことは分からないが、せめて少しでも負担が少なく済めばよいのにと思わずにはいられない。そんなことは、貧乏が板についたカマボコになっている私のようなものが言うことではないのだろうけれど。

 演目は『明治の雪』と『太夫(こったい)さん』のふたつ。いずれも北條秀司の傑作と言われるもの。近くの席にいた観客がしずかに「太夫さん観たいなあ」とつぶやいたのが実にさみしく、印象的だった。見ず知らずの、言葉を交わすどころかおそらくもう二度と会うことのないであろう観客に対する共感が生まれるところに劇場体験の精髄がある。上演の成果について私がとやかく言えることはないが、曾我廼家文童演じる輪違屋主人のうまさは見ものだった。波乃の弟子筋にあたる鴫原桂の喜美太夫も実によかった。新派がいよいよ風前の灯火となり、外部から著名なスターを呼ばねば公演が立ち行かないという時代にあっては弟子筋にはこうした大きい役はなかなか回ってこないのだろう。少なくとも私が過去に見ている喜美太夫藤原紀香藤山直美が務めていた。稽古の場で波乃と鴫原が顔を見合わせ涙にくれたという話などは芸道物の劇世界のようだった。

 加えて、今日どうしても書き残しておきたいのは波乃久里子のスケールだった。波乃は身長が公称で159cm、特別小さくはないが大柄でもない。その波乃が2m近いサイズに錯覚された。なにをバカなことをと思われるかもしれない。単に三越や新橋よりも客席が近いからと思われるかもしれない。しかし、先日たまたま明治座公演を花道の真横から見物した際の、七三に見える俳優何某よりもはるかに巨大に見えた。明治座の歌舞伎俳優はもちろん、立派な衣装を身にまとっているのだが、ただ着物を着て立ったり座ったりしているだけの波乃の方がはるかに大きかった。ここで強調しておきたいのは、私は別に波乃崇拝でも何でもないということだ。特に熱狂的ファンというわけでもない人間にあれほどのスケールを伝えた波乃のことを私はいつまでも忘れることはないだろう。