白野週報

Molière a du génie et Christian était beau.

フィクションにおける「初恋」のイメージ

 ある統計によれば、初恋の相手と結ばれる確率は1%を切っているのだという。その統計がどういった趣旨でどのように調査されたものなのか、そしてなにをもってして「結ばれる」としているのかについては、私は知らない。「結ばれる」の定義については「一時期でも交際に至る」というのであればもう少し確率は上がりそうだという印象があるので、結婚を指しているのではないかという感じはするのであるが。私の実生活について言えば初恋の相手とは交際には至っていないし、そうである以上当然結婚にも至っていない。初恋を仮に、初めての交際という意味にとっても同様である。とはいえ、自分がそうならなかった(なれなかった)からといってそういう例を知らないわけではない。中学、高校時代に交際を初めてそのまま現在に至るまで一緒にいるという例は私のごく狭い交友関係のなかでも何組か挙げることができる。もっともその人たちが互いに初恋であったのか、それともそれ以前に何人かと付き合ったうえで現在のパートナーと一緒になったのかは下世話な質問なので訊いていない。とはいえ「初恋の相手と結ばれる」というのはお互いの相性が良ければ決してあり得ない話ではないのだろうと言うことぐらいはできるだろう。

 ところが、フィクションに描かれる「初恋」あるいは「初恋」というイメージは不思議なほどに離別をイメージさせる。我々(といっても差し支えないだろう)の実人生における苦い別れや後悔がそのように思わせるのであろうか。しかし別れというのは別れたくて別れることが少なくないのであって、殊に初恋の相手だったからというだけでそこに必ずしも後悔が付きまとうかは疑問である。それにフィクションを受容する際の態度は必ずしも自己投影ではないのであって、実人生との対比だけで判断が行われているとは限らない。無論、あまりにも実人生における実感から離れてしまうと作品に対してリアリティを感じられなくなってしまうということはあるのだが。

 成就しない初恋というイメージは樋口一葉の『十三夜』や伊藤左千夫の『野菊の墓』などにその典型を見出すことができる。自由恋愛が近代の産物であるということはひろく言われている。図式的に言えば、これらは旧来の家制度との対立のなかで脆くも破壊されるものとしての恋愛を描いたということができるだろう。徳富蘆花の『不如帰』はモデルの問題から今日ほとんど読まれていない小説だが、これなども家制度が男女の愛情を押しつぶす様を描いているということができる。これら近代小説における恋愛の問題は、遊興としての色と対立するように恋愛が成立していく過程など目を配らないといけないため、原稿用紙二、三枚で語れるような話ではない。とはいえ、こうした近代に繰り返された「あるべき未来の喪失としての初恋の終焉」というイメージが今日まで我々の作品受容に影響を及ぼしているということは考えられるのではないだろうか。神田祥子は『野菊の墓』における別離について次のように書いている。

 

 現在の政夫は結婚しているが、それもまた民子と同様「余儀なき」ものであり、彼の愛情は妻ではなく、依然として民子に注がれたままである。『野菊の墓』において、「結婚」は「家」や社会が要請する制度にすぎない。むしろそのような枠組みがないにもかかわらず、変わらずに維持される精神的な絆が、「純愛」として称揚される。

 とはいえ、民子と政夫がめでたく初恋を成就させ、現実の結婚にたどり着いたとして、この美化された「純愛」をずっと保つことが果たしてできただろうか。二人の初恋は、むりやり断ち切られ、成就しないことによって、変わらない美しさを保っているとも言えるのである。

(神田祥子「恋人たちの明治文学史」『明治このフシギな時代』新典社、2016年2月、120頁)

 

 ここで重要なのは、引用部後段について根拠が特に示されていないにも拘らずなんとなく得心がいくということである。我々は実際の家庭生活がなんとなく、美しいだけでいられないことを知っている。幸福な家庭生活は世に数多くあるが、それは幸福な「生活」であって純粋化された「観念」が現れているわけではない。なにか観念を体現するために生活を送っている人は(あまり)いない。戦中日本のプロパガンダ映画がアメリカ人の目には上質な反戦映画に見えたという逸話は確か『菊と刀』に書かれていたのであったか。達成されるべき未来の喪失によってなにが現実において達成されるべき理想であるのかを描くという手法はフィクションにはまま見られる(もっともいまそれについて語る準備はないのであるが)。そして恋愛について言えば、成就した恋には理想のみで語りきれない現実の生活が付きまとう。恋愛におけるひとつの理想を描く手段としてフィクションにおける初恋は途絶させられてきた。そういった蓄積の上で我々は、現在進行中のフィクションにおける初恋が達成されるか否か、戦々恐々と見守っているのである。