白野週報

Molière a du génie et Christian était beau.

帰りの列車にて

 今日も付き合いで外出していたのでパソコンの前でなにか書くということはできなかった。家に帰り着く頃にはおそらく十二時近いだろうし、それから何か書くというとゲッソリしてしまうので帰路の途中で考えたことを書く。

 私も相当口の悪い人間だし、そうである以上他人の言動に対してとやかく言える立場ではないが、やはり、もって生まれたものに対する悪口というのは、聞いていていい気がしない。今日はそういう感じのよろしくない席に出て、大いに気が滅入ってしまった。悪口はせめて、聞いている方が笑って済ませられたり、言ってる当人に返ってくるようなものでなければ思う。もっとも、そんなことを言ってみたところで自分の口の悪さが免責されるようなことはないのであるが。

 そういう席で、私の去年しでかした失態の話が出たので気分で言えば当然、面白くない。今頃、一人席を離れた自分に当てて面白おかしく罵詈雑言が並べ立てられているのではないかとますます暗い気持ちになる。もっとも、それ自体は単なる被害妄想なのであって、実際にそうなのであったとしても、私の暗い気持ちを呼び込んでいるものが私の頭の中に描かれた妄想であることは間違いない(妄想が的中することがあるにしても、そんなものはただの偶然であって、告げ口でもされない限りは私の知るところではないのだ)。

 列車に揺れながら、成人してから先の自分の越し方が夢のように思い出される。それらがすべて、今立っている私に対して否を突きつけているような、そんな気分になる。帰ったとて、面白おかしくなにか趣味に興じる気分にはならないし、仕事の見直しをする気持ちにもならない。なにか面白いことを見つけようと思っても浮かんでこないし、暗い気持ちを振り払えるようなものも当然、出てこない。なんで他人の悪口を聞かされた私がこうまで惨めな気分にならなければならないのか。そうやって怒りを込めて振り返ることができたらいいはずなのだけれど、人に怒れるような御身分ではないという「気分」が一切を邪魔立てする。

 やはり自分はこの世界に向いていないのではないか、白旗を上げてどこか生きていかれそうな場所を見つけるべきではないのか、そういうことばかりが浮かんでは消えていくが、現実世界には逃げ出す先などというものはどこにもありはしない。夏目漱石はかつて弟子筋の芥川龍之介にむかって「牛のごとく図々しく進め」と指導をしたらしい。正確な文言は忘れた。せめて、私も図々しく、他人の言うことを受け流せる凪いだ心持ちになれたならよいのであるが。

電子書籍雑感

 土曜日に終日出かける用事が立て込んで、いつの間にか二週間も更新をサボっていた。今日もまだ家に着いていないのだが、このままサボるともう二度と更新しなくなるような気がするのでスマホから更新する。

 第二段落を書き出した時点でまだおそらく百字と書いていないはずだが、もうすでに疲れている。阪大の菊池誠教授はスマホから論文の下書きをするらしいが、羨ましい限りだ。

 スマホで文字を追うというのが、そもそも辛い。電子書籍が普及した今も、スマホで新書や小説を読む気にはなれない。媒体を侮っているというより、紙で読むよりも目が疲れる気がする。ただでさえ仕事でも娯楽でも目を酷使するので、漠然とでも疲れる気がすることはあまりやりたくない。スマホで読みたいのは漫画だけだ。

 ただ、スマホで読書をすると片手で用が足りるのはありがたい。通勤電車で紙の本を広げて読むのはかなり無理がある。上の世代の人たちは満員電車で新聞を読んでいたらしいが、どういう技術で成り立っていたのだろうか。片手でホールドするとして、どうやって見る箇所を変えていたのだろうか。文庫ですら無理があるのに、新聞とは恐れ入る。もっとも、新聞は頭にいれる情報が少なく済む(興味のないところは見出しだけ読んで飛ばしても良い)のでうまくやればなんとかなるのかもしれない。話が逸れたが、その点でいうとスマホはページも片手で送れ、表面積が増えることもないので混雑した電車でも安心して読むことができる。これがうまく活用できればかなり得なのだろうが、やはり、どうしても電子書籍の新書には手が出ない。

 先週は驚くほど忙しかったので更新をしなかった。今週も気乗りしないので何も書かずに済ませてしまおうかと思ったが、そうすると二度とブログを開かなくなるので無理矢理ふでを執る。

 今週は面白いことがいくつかあったが、他人のプライバシーを侵害する内容なのでネットには書けない。自分自身については、年が明けてから特に何もなかった。数年ぶりに会った友人に近況を尋ねられ「漫然と歳を喰っておりました」と返したらちょっとウケたが、まさにいま漫然と歳を喰っている。

 ここ数年鳴かず飛ばずの暮らし振りで、周りの人間がどんどんライブステージを押し上げていくなか、自分だけ何も変わっていないので嫌悪感に苛まれる。むかし、意地の悪い先輩に「キミは自己嫌悪に苛まれるばかりでなにも成長がないね」と言われたことがあるが、あれはまさに核心だったと思う。その先輩も社会に揉まれ、何年か前最後にあった時には角が取れ、先手でイヤミを打ってくるようなところがなくなっていた。人生の悲哀を感じる一幕だった。

 

似ていると言われた人のこと

 最近、痩せて顔が変わったからか立て続けにさまぁ~ずの大竹一樹に似ていると言われた。そのことを上司との雑談中に話したところ「似ていない」 と返された。思い返せば、これまで顔の作りをいろいろな人物に例えられ、概ね言い出しっぺ以外納得しないということが多々あった。似ていると言われた人を思い出せる限り箇条書きにすると以下の通りになる(いずれも敬称略) 。

 

大竹一樹(さまぁーず)

吉岡秀隆

中井貴一

山里亮太(南海キャンディーズ)

ウディ・アレン

ダニエル・ラドクリフ

ピーポくん

 

 書き出してみても、共通点があるのかないのか今ひとつ判然としない。人類の顔を四つぐらいのパターンに類型化した場合に同じ枠に入るのかもしれないと思わなくもないが、それは「似ている」と言うのだろうか?それに、ピーポくんだけは明らかに系統からして違っているような気がする(そもそも人でない) 。

 このうちもっとも頻繁に言われたのが大竹一樹で、古い友だちの中には私のことを「オオタケ」と 呼ぶ人が何人がいる。ピーポくんは高校二年生の、かなり肥満して際立って下膨れしていた時期に言われていた。「似ている芸能人」の話題が出たときに一番ウケがいいのが「高校時代ピーポくんに似ていると言われていた」くだりなので、便利に使わせてもらっている。逆に、ウディ・アレンに似ていると言われた話はウケが悪く、その話を披露した際には自称していたわけでもないのに友人連に袋叩きにされた。おそらく、ダニエル・ラドクリフに似ていると言われた話も同じようなリアクションになるだろう。

 余談だが、芸能人に顔を例えるのが喜ばれるとは限らない。大学の後輩に有村架純似の女の子がいたが、そのことを指摘されるや「私は有村架純の下位互換にしかなれない」と嘆いていた。その心持ちをメンドーだと切り捨てるのは容易い。いくら周りが好ましいことと思っていても、本人にとって好ましくないのであれば、それは尊重されてよいはずである。

SwitchONLINEに思うところ二、三

 SwitchONLINEのサービスとして提供されているファミコンスーファミゲームボーイエミュレーターは、年額2,000円強で使えると思うと異様なほどコストパフォーマンスがいい。レトロゲームに執着があり、もはやゲームで遊び得る時間があまり持てない私などは新作ゲームを買うよりもそちらを優先してしまっている。商売として成り立っているのだろうかと、天下の大企業相手に余計な心配をしてしまう始末。

 しかし、おそらく多くのユーザーが指摘しているとおり、操作説明が一切つかないというのは不親切の感が否めない。スーパーファミコンソフトのうちキーコンフィグ機能がついているソフトはそれを見さえすればなんとかなるし、ファミコンゲームボーイのソフトは使うボタンが少ないので適当に操作してどうにかならないこともない。とはいえ、ファミコンソフトでも『ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣』は説明書にアイテムの仕様が掲載されていたので、説明書抜きに遊ぶのはかなり難しい。スーパーファミコンの『スーパーファミリーテニス』は移動キーと各種ボタンの組み合わせでショットの打ち分けを行うことができるが、説明書抜きではよほどセンスのあるプレイヤーでないと身に付かないだろう。

 もっとも、説明書のたぐいは愛好家がネットに公開していることも少なくないので(それが権利的にどうなのかは、ここでは考えない) 、そういうものを当てにすることを前提にしているのかもしれない。

 また、ジョイコンの方向キーはあまり入力がスムーズでなく、逆にアナログスティックは上下左右の位置で決め打ちにすることが難しく、少し力が入ると斜め方向にスティックが入ってしまう。プロコンの十字キーはその点、元のハードと同じ感覚で入力することができる。ただ、アナログスティックの方はやはり意図しない斜め入力が起こりがちであるように感じる。

 他にも、セレクトボタンを多用する『スーパーメトロイド』は十字キーで操作をするとセレクトボタン(スイッチコンの−ボタン) を押すタイミングでアナログスティックに指がぶつかって操作がもたつくことがある。もっとも、これはこちらで慣れるかキーコンフィグを弄るかすればなんとかなる範疇ではある。

 以上、減点要素をいくつかあげたが、それらを勘案してもなおサービス過多と言えるもので、満足できるものであることは間違いない。古いゲームソフトには、正規の手段で遊ぶことができないものが徐々に増えてきている。これらに対する「文化の保全」がいかになされるかという点から見ても、この手の試みが有意義であることは疑えない。

もはやこれまでか

 先週は仕事の都合でブログどころでなかったが今週は気が向かなくてサボりそうだった。最近は講座の後輩との関係があまりうまく行っていないことがもっぱらの悩みで、そのことばかり考えてしまう。しかし、人間関係の悩みなどいくら半匿名とはいえネットに書くメリットは一つもない。

 問題を自分個人のことに絞ってみても、自分はもしかして物凄い低能なのではないかなどと、人に聞かせるような話でないことばかりがツラツラと出てくるので、やはりネット上に書くようなことではない。

 そろそろネタ切れなのであろうか。というより、ネタをひねり出すだけの精神的な余裕が失われているというべきだろうか。それにしたってそういうことを書くべきではないのだが。

 

最近の劇界について二つ

 今月は劇場に行く気が湧かず芝居も映画も見なかった。めぼしいものがないといえばそれまでだが、めぼしいものがなくても劇場に行くのがシアターゴーアーなのだから、ひょっとしたら自分はそんなに芝居が好きではないのかもしれないと思わなくもない。

 宝塚がハラスメント問題でてんやわんやとなっているが、「清く正しく美しく」というのは芸能がそもそも清くも正しくもないということが大前提なのだから一皮剥けば嫌なものが出てくるというのは当然といえば当然の話だ。しかし、ブランディングというのはいかにしてそういったイメージに観客を誘導するかがキモなのだから、それに乗せられる観客のことを批難したって始まらない。問題なのは、愛着の対象を守るために敵愾心を剥き出しにして被害者を批難する人が少なからずいることだ。思い込みで他人を傷付けるようなことを言うものではない。

 歌舞伎の方も執行猶予付きの判決ということで一旦は解決を見たが、事の重大性に対してファンがあまりに甘い事をいうので辟易とする。批評家の某先生が故段四郎丈がまるで著名タレントの添え物のごとく報じられていることに怒り心頭だった。私が芝居を見始めた頃には段四郎丈はすでにリタイアしており見ていないが、その怒りはもっともだと思う。