白野週報

Molière a du génie et Christian était beau.

卒業ソングとは言い難い『卒業』(1985)

 最近、尾崎豊夫人による暴露記事を読んだ。いかに尾崎豊が滅茶苦茶な人間だったかということが痛切なトーンで回顧されている。その心中察するに余りあるところだが、尾崎が人間的にはかなり破綻していたということは尾崎のファンならずとも音楽史、特にソニーレコードや須藤晃などの周辺に関心のある人ならおおよそ想像のつくところではある。熱狂的なファンでも、尾崎を聖人君子と思っている人は少ないのではないだろうか。もちろん繊細さゆえ、ナイーブさゆえに破綻した振る舞いに出ざるを得なかったのだと擁護する声はあるだろうが。

 この時期になると「卒業ソング」の代表格として尾崎豊の『卒業』(1985)がよく取り上げられる。「この支配からの卒業」というフレーズはリリースから四半世紀をゆうに越えてなお人口に膾炙している。だが、多くの尾崎ファンや音楽通が繰り返し語ってきたように、この歌は実際には「支配からの卒業」を歌い上げているわけではない。一番、二番と続けて学校生活に表象される抑圧に対し暴力的な反抗を示しながら「卒業していったい何を分かるというのか」に始まる三番の歌詞でそれまでの反抗はすべて異化している。学校からの卒業は、「支配からの卒業」を表象しない。それは新たな「支配」に組み入れられることを表象しているに過ぎない。「あと何度自分自身卒業すれば本当の自分にたどり着けるだろう」という問いかけはどこまで行っても「支配」から逃れることはできないという諦観さえ帯びている。

 『卒業』は最後「戦いからの卒業」というフレーズで締め括られる。これが「支配」に組み入れられることへの諦めを歌っているのか、もう少し希望のあるものなのかは分からない。だが少なくとも、広くイメージされるような「支配からの卒業」を目指し、その達成を喜ぶというような歌でないことだけは確かなことである。