白野週報

Molière a du génie et Christian était beau.

演技と「素人」

 昨日(2021年8月27日)の金曜ロードショーで『風立ちぬ』が放送されていた。私は私用があったため残念ながら観ていない。同作の主演が庵野秀明であるというのは当初から話題にされていた。宮崎駿はある時期から自作のメインキャストに非・声優を起用するようになったことで知られている。子どもの時分、私も御多分に漏れず『となりのトトロ』に夢中になった手合いであった。さつきとメイの父親を演じた糸井重里の演技は、当時は子供だったのでそういうものだと思って受け入れていた。だが、大人になって見返すとコメントに窮する世評では庵野の演技もあまり褒められてはいないように見える。そのような事情もあってか、非声優の起用については否定的な見解を示す人が少なくない。もっとも、宮崎駿が本職の声優を起用しなくなったのは某女性声優に失恋したことが原因であるという説についてはデマであろうと思う。声優の起用方針については、ハリウッドA旧作品の吹替に「声優初挑戦」の謳い文句とともにアイドルやタレントが起用されがちであることもあって、比較的センシティブな話題になっている。『トイ・ストーリー』の配役を巡って山寺宏一が降板させられたという逸話なども有名だ(ただしこの件については『別冊宝島』以外に記事になっておらず、真偽はアヤシゲである)。

 とはいえ、演技についてその方面の素人を起用しようという試みそのものは歴史的に見て、必ずしも不当なものではない。フランスの映画監督であるロベール・ブレッソンは自身の映画に職業俳優を起用することを嫌っていた。俳優の演技を誇張とみなすブレッソンの姿勢はある種の「リアリズム」と解釈できる。近代に隆盛した「リアリズム」はそもそも素人による演技と関連が深い。フランス演劇史で必ずと言っていいほど話題になるアンドレ・アントワーヌは、コメディ・フランセーズの「正統」な俳優ではなくガス会社に勤めるアマチュア演劇愛好家であった。「リアルに見せる」という発想は、その時代の主流派を占める「玄人」から逸脱して見せるという方向に発露しやすい。日本においても、近代演劇の目指した一つの方向性は歌舞伎俳優をなるべく素人に近づけるというものであった。近代日本演劇の父と謳われた小山内薫は「歌うな語れ、踊るな歩け」という趣旨の発言を残している。図式的に説明するなら、踊りと音楽が不可分であった歌舞伎から脱却せよという意味である。確かに、歌ったり踊ったりするのは「リアル」ではないだろう。例えばフレッド・アステアミュージカル映画『バンドワゴン』も、唐突に歌って踊るというミュージカルの劇作法を揶揄するシーンが設けられていた。無論、現実と完全に同一であるフィクションというのは成り立たないのであるが(現実の断片を描こうとした試みが、昨年炎上した平田オリザの演劇である)現実に極力近いものが見たいという欲望は確かに存在するように思われてならない。「リアル」という形容が悪い意味でつかわれることがほとんどないというのは、そうした欲望の表れであろう。話がそれてしまったが、宮崎駿の声優起用法についてはゴシップを持ち出すまでもなく、そうした「リアリズム」への欲求の表れとして説明可能であると考えられる。

 

付記

 庵野秀明は吹替に挑戦するにあたり「演技はできないので夫人(安野モヨコ)のことを考えながら吹替を行った」という発言をしている。肉親に思いを馳せることで素人に演技をつけていくという場面が井上ひさし作『紙屋町さくらホテル』に描かれていたことを思い出した。内心を実体験から連想して心理状態を作り、それによって演技をつけるという方法で即座に思い浮かぶのは「スタニスラフスキーメソッド」であるが、それが念頭にあったのかというのは興味深いことである。