白野週報

Molière a du génie et Christian était beau.

泉鏡花について最近思ったこと

 硯友社系の作家のうち、現在でも辛うじて読まれ続けているのは泉鏡花ぐらいではないかと思う。尾崎紅葉門下の四天王と謳われたうち、徳田秋声、柳川春葉、小栗風葉を愛読しているという人を私は見たことがない。頭目たる尾崎紅葉すら、もはや一般には読まれてはいまい。熱海海岸には今でも貫一お宮像があるが*1実際に『金色夜叉』を通読した人が熱海の観光客にどれほどいるのだろうか。これはひとつには、中高の国語で扱う文学史夏目漱石を中核として記述されていることが無関係ではあるまい。そうした教育の背景には無論、既存の文学史夏目漱石と「自然主義」を主軸に「近代小説」が成立、展開していく様を縷述してきたことが大きいだろう*2

 泉鏡花は早くに中村光男などがその作家性を擁護しているが、再評価の機運が高まったのは1970年代に澁澤龍彦三島由紀夫が口を揃えて鏡花文学を称賛したことによると言われている。以来、澁澤好みの耽美と幻想の作家として鏡花は硯友社の作家の中でほとんど唯一今日までその命脈を保っている。もっとも鏡花の研究者はこの「耽美と幻想」というイメージに一元化されることに対して反発を綴ったりもしている。事実、鏡花の作品には狭斜の世界を生きる人間を描いた「花柳もの」の作品が多く『滝の白糸』*3婦系図』『日本橋』 といった作品が、ある時期までは鏡花のイメージを規定していた。現在では『高野聖』や『海神別荘』『夜叉ヶ池』『天守物語』の方が、鏡花の文学というイメージを担っているのではないだろうか。

 70年代に再評価が進み、全集が増刷され、2000年代には新たな選集((『新編泉鏡花集』)が編まれ、筑摩書房から文庫版サイズの集成が発刊された鏡花だが、近年はやや低調であるように思う。ふつう自分では買い集めない全集はともかく、筑摩の『泉鏡花集成』はすでに絶版であるし、書店に並んでいるのは岩波文庫版を除けば東雅夫が編んだ『文豪怪奇セレクション』(双葉社)の「戯曲篇」「小説篇」二冊ぐらいではないか。泉鏡花の文学は澁澤龍彦の好みによってイメージを規定されたが、そのことによって辛うじて一般に読まれる位置を保っているということはあるのかもしれない。

*1:少なくとも私が数年前に訪ねたときはあった

*2:こういった決めつけはあまりにも図式的で本当は良くないのだが

*3:白糸は厳密には花柳界の人間ではないが