白野週報

Molière a du génie et Christian était beau.

入浴という習慣

 風呂が嫌いであるという人が時々いる。幸いなことに私は入浴することは嫌いでないので日々苦痛なくこなしているが、嫌いな人にとっては大変な苦痛であるらしい。なにがそこまで嫌なのか私には分からないが、しかしながら入浴は必ずしも普遍的な行為でないということは時々耳にすることだ。

 ある大学教授が在外研究でフランスに滞在した折、お湯の使用を巡って住んでいたアパルトマンの管理人とひと悶着あったということを書いていた。曰く、フランスには浴槽に湯を張るという習慣がないため教授一家が浴槽に湯をためると給水制限によりほかの住民が湯を使うことができなくなるのだという。結局、その教授が余分に水道料金を払うことで解決を見たというが、詳しいことは忘れてしまった。また、今のフランスもそうであるのかというのは滞在経験がないのでわからない。都市の上下水道にはその町の歴史が反映されていて面白いものがある。本も何冊か(実際には「何冊か」では済まない冊数なのだろうが)出ており、大変面白い。話を入浴に戻す。ヨーロッパではあまり湯につからないというのは、ひとつにはキリスト教的な禁欲主義が関係していると聞いたことがある。近世(中世だったかもしれない)のある夫人は、衣服から露出している部分以外を洗うことを自分に戒めていたという。今日の我々からするとどうなのだろうかというより他ないが、当人にとってはそれが信仰の表れであったのだろう。しかし禁欲主義と関係があるということは、体を洗うという行為は快楽と結びついているのであろうか。もうひとつの大きな理由として梅毒の流行によって公衆浴場が潰えたためだと何かで読んだことがある。体を清め、清潔に保つための行為が感染症の源になるというのは皮肉な話だ。

 コロナ禍によって旅行も出張もなくなり、銭湯のような施設に遊びに行くこともなくなった。聞けばお台場の温泉施設も閉館してしまったという。「温泉旅行」という言葉に何かサムシングエルスを感じる私にはつくづく残念なことである。